福岡県大牟田市宮原 駛馬天満宮 拝殿正面 晴れ ちくごさるき

太宰府天満宮の弟分?[駛馬天満宮]大牟田市宮原町

福岡県大牟田市宮原町1丁目191の駛馬天満宮をウロウロしてきました\(^o^)/

このページは画像34枚と3100文字です。重いです。長いです(;’∀’)

ここに来る前に近所にある[世界遺産 宮原坑跡]を見学してたんやけど、その時にガイドさんに紹介してもらった散策ポイントがココ。太宰府天満宮くらい古い歴史があるんやって(*’▽’)

 

駐車場から見た駛馬天満宮。鳥居の両側に鳥が居る。

おおおおおおおおお!これが本当の鳥居か!!鳥居発祥の地かΣ(゚□゚*)!

 

鳥居の横の鳥。右の鳥と左の鳥は色柄が違うんやけど、なんか意味があるんかな?

 

立派な神門。

 

神門の飾り彫刻。魚が彫られてる。[駛馬天満宮]だからウマ関係かな?と思ってたけど、馬系の彫り物は見当たらなかった。

 

参道はコンクリ敷き。デッカイ灯籠が二つ。

 

拝殿。なかなか良く撮れとるやろ( ´∀` )?

 

拝殿の中。豪華やね(*‘∀‘)

梅の紋と牛、天満宮やね。

 

拝殿に向かって左側には社務所。

 

右側には、飛梅。太宰府からの寄贈って書いてある。

 

拝殿から撮った神門。

左側の飛梅の柵の元に要らんもの(バイクジャケットとリュックサック)が写り込んでて残念な気持ち:;(∩´﹏`∩);:

 

参道の脇にある立て看板↓

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夢枕守

夢枕とは。夢にはあなたへの大切なお伝えごとが秘められています。どうか良き眠りと共にありがたい御真徳をお受けとりください。

当 駛馬天満宮の御神体は御祭神 菅原道真公が、都に残された妻子を慰める為に送られた自画像でございます。

「この自画像を、宮原(米生)の地に社を作り産土神として祀るべし」と道真公の遣いである住吉下野守信晴の夢枕に立たれたことから、承平三年癸巳(九三三)年十一月二十五日に社殿を造栄し、祭祀を行うようになりましたゆえんでございます。

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拝殿を右に進むと社が二つ。

奥の赤白の社は稲荷神社。稲荷様はドコにでも居るよねヽ( ´ー`)ノ

 

拝殿の裏に周ると神殿?本殿?が見える…けど壁に囲まれてて屋根しか見えない(>_<)

 

参道の右側には宮原公民館がある。この建物の脇に公衆トイレがついてる。

 

 

 

県指定文化財

参道の左側には県指定文化財が二つ並んでる。

宮原石層塔残欠

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現在の形態は、後年の積み替えによって順序転倒し、かつ別の部材の混入もあるが、もとは五十石塔であったことが造立の銘文によって明らかとなっている。石材は凝灰岩で、現存する原初からの部分は、凸字形の基礎、八角形の塔身、笠石二個、及び九輪の一部(欠損して現在は四輪しかない)である。

第一層塔身は四角柱状の大面取り(四角形の角隅を大きく削る)で、正四面には背光形龕(仏像を入れる厨子を意味して彫くぼめた形)の中に四仏坐像を半肉に彫顕し、四隅の面取り部に四天王立像の彫刻を配する点が本当の優れた特色である。

笠石は、降棟の裾部で深く反り、軒付は厚く、その両端で反る。軒付きの下辺は浅く彫りこみをつけて棰部を刻出している。

原型を推測すると、五重塔の上に露盤・相輪を頂く三m以上に及ぶ堂々たる石塔であったと思われる。現高二、〇九m

銘文は、基礎の突出部の正面より右方へと廻り、左側面には和歌を刻んだ銘がある。

中略

和歌の銘文は、

キヌシウノ ツユニアラソウ ハレナレヤ

トヨアシワラノ 風ニチリナン

ノチノ身ノカタミノ 石はチリ世ニモ

方らハシラヌ ヨニハツタヱヨ

南無阿弥陀仏

 

銘文末尾の作者名は欠如しているが、本当を他の藤原助次の遺作八基と比較して、同人作であることは十分比定でき、しかも本塔が第一作であることが考えられる。

平成二十三年三月 福岡県教育委員会 大牟田市教育委員会

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↓これが[四仏坐像を半肉に彫顕し、四隅の面取り部に四天王立像の彫刻を配する]かな?

 

宮原天満宮石幢残欠

もう一個の県指定文化財。

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県指定文化財(考古資料) 宮原天満宮石幢残欠(せきとうざんけつ)

大牟田市宮原町一丁目一九一 昭和三七年四月一九日指定

この石塔は現在台石の上に六個の石材が積み重ねられていて、上から五番目の石(石幢)に彫刻された図柄が山水、建物(三重塔)、人物、鳥獣など七堂伽藍を思わせるためか昔から「ガランサン」と呼び親しまれてきました。また、絵の隅の方に残された銘文から貞和七年(一三五一)に藤原助継という人がつくったものであることがわかります。藤原助継(助次)の作品は大牟田を中心に熊本から大川にかけて九点が知られています。本境内の宮原天満宮石幢残欠もそのうちの一つで、近くには他に藤原天満宮の石層塔残欠、荒尾市三ノ宮の四仏塔、などがあります。

※銘文は「奉造立志者之/大願主/ 藤原助継/貞和七年卯辛八月廿五日 敬白」

※「貞和」は南北朝鮮期に北朝で使われた年号で貞和六年に観応と改元されているので、貞和七年というのは、観応二年と表記されるべきところですが、助次作品では引き続き貞和が使用されています。そのころ南朝では「正平」が使われていました。

※なお上四個の石材は五輪塔ですが、もともとは全く別のもので、絵柄のある石材とは本来関係のないものです。

平成八年二月二十九日

福岡県教育委員会 大牟田市教育委員会

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上で紹介した[宮原石層塔残欠]と作者が同じみたいね。藤原さん、有名人なんかな?

 

俳句の石

「あり余る 筑後の日ざし 麦は穂に」青雨

境内の端にあった句碑、二つ。

青雨ってこの俳句作った人かな?よく分らんけど俳句の後に小さく[青雨]って書いてある。

俳句の石の前にある石碑にはこう書いてある↓

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罷免の俳句は「思国歌」(註[くにしのびうた]と読み郷国を偲びその国土をほめる歌)万葉の昔から歌われてきたが、それをあらわすのに「あり余る」という言葉を選んだ事に詩人の心を思う。「あり余る筑後の日ざし」という措辞には、自分の故郷に対する限りない愛情と思いが私たちに伝わるのであるが、「あり余る」という言葉には日ざしだけではなく筑後平野の広さまでも想像させる。

座五の「麦は穂に」てあるか、上五七の大景に対してこれ以上の適切な季題は一寸思いあたらない。この季題の助けによって見事に次元の高い「くにしのびうた」が完結している。句碑に刻み後世に残す歌として適切だと思う。

あり余る初夏の太陽の下に広がる麦畑よ

我が故郷 筑後はなんと美しい国であろうか

平成十一年五月二十三日

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「相集ふ花は萬朶と言へすとも」朴史

もう一個 俳句の石あったけど、写真はコレ↓しか撮ってなかった:;(∩´﹏`∩);:

石碑にはこう書いてある

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川上朴史先生句碑

相集ふ花は萬朶と言へすとも 朴史

句碑 親しい人々が集まってきた。丁度、桜の季節である。惜しむらくは、まだ満開の桜と言えないが、それをおぎなう集いになるに違いない。句の調べが良く心情が余韻として伝わって来る。

ホトトギス主宰 稲畑 汀子

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朶←は[た・だ・えだ]って読むみたい。

 

カッコいい石彫

ここの石彫は櫟野(いちの)の石工製のものばかりやった、さすが地元大牟田やね。

 

みて!文字のスタイル!めっちゃ手が込んでる!

 

コレ↓なんか、超かっこいいやん٩(ˊᗜˋ*)و アートやん!

このアーティスティックなフォントを見て思った、芸術に時代や技術は関係ないんやな。

 

これも!時代的に手作業で彫っとるよね?!すげー(*´﹃`*)

この辺は、梅井さん 中村さん 住吉さんが多いんかな?

 

優勝の狛犬

楼門の横にいる狛犬。

台には「月五年十正大」って書いてある。右から読むのか!いにしえ~(o´艸`)

 

大正十年五月って書いてある反対側はコレ↓

「優勝 甲方六回 乙方四回 丙回三回」って書いてあるけど…なんのこっちゃ?謎。

 

おまけ

世界遺産 宮原坑 第二竪坑櫓が見えるよ!

その手前に見える黄緑色の家の場所には、第一竪坑櫓があったんだよ!

世界遺産 宮原坑の記事はコチラ→[ガイド付き宮原坑]

[ガイド無し宮原坑]

おわり。

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